2009-06-30

夏越の祓に幻の鳥を想う



風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
 みそぎぞ夏の しるしなりける
             従二位家隆



[歌意]風がそよそよと楢の葉に吹いている、このならの小川の夕暮れは、秋の訪れを感じさせるが、六月祓のみそぎだけが、夏であることのしるしなのだった。
(鈴木日出男・山口慎一・依田泰『原色小倉百人一首』文英堂)






 『小倉百人一首』98番目の歌です。「ならの小川」は上賀茂神社の中を流れる御手洗川、「六月祓」は毎年6月30日に行われる夏越の祓を指しています。
 そよ吹く風に秋の気配を感じつつ、上賀茂神社の夏越の祓の神事を目にして夏の最後の一日を実感するという、夏から秋への季節の移ろいをとらえた歌です。



 さて、子供の頃、毎年お正月には祖父母の家でいとこたちとよく百人一首で遊びました。散らしとか源平とか坊主めくりとか。
 散らしや源平のカルタ取りをする時には、叔母さんたちが札を読み上げてくれました。
 私はこのカルタ取りで百人一首の和歌を覚えました。歌の正確な意味など知らぬままに。



 そのため、冒頭に掲げた家隆の歌を、子供の私はこんなふうに理解してました。





風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは
  ミソギソ 夏の印なりける



 風がそよそよと吹く奈良の小川の夕暮れは、ミソギソが夏の証である。夏の夕暮れにはミソギソが現れて季節を告げてくれるのだ。






Misogiso



 だって、百人一首の札には濁点ないもん。
 叔母さんたち皆(含む実母)「ミソギソ」って読み上げてたんだもん。






 叔母さんたちの名誉のために付け加えておきますと、祖父母の家で百人一首は正月恒例の遊びだったので、いろいろ「我が家流」の読みクセがあったのです。「つらぬきどんてん玉ぞ散りける」とか「末のまっちゃん波越さじとは」とか。「みそぎぞ」もいつの間にか「みそぎそ」になっちゃったのでしょう。



 そんな訳で、私は子供の頃からずっと、奈良の小川にはミソギソという鳥が棲息しているのだと、夏になると水辺ではミソギソの鳴き声が聞こえるのだと、でもって奈良の人たちはミソギソの声を聞いて「あぁ、ミソギソだ、もう夏だねぇ」と言い合ったりするのだと、固く固く信じていたのでした。



 ところが、中学高校で古文を習い、大学で国文科に進学し、『百人一首』のお勉強なぞするようになったら、ミソギソは消えてしまいました。
 え? 「ミソギソ」じゃなくて「禊ぞ」? えぇっ!?



 日本国語大辞典や鳥類図鑑もひいてみました。長年親しんだはずのミソギソは見つかりませんでした。



 今はちゃんと分かってます。ミソギソなんて鳥、どこにもいません。現に今も「ミソギソ」ってググッてみましたけど、たった2件しかヒットしないんですから。
 「ミソギソ」じゃなくて「禊ぞ」。家隆が詠んだのは夏越の祓です。



 でも。



 小さめのほっそりした姿。光の加減で色を変える青味がかった美しい羽。ツィッツィと鳴く高めの涼やかな鳴き声。



 いつの日か……初夏の木漏れ日の下、奈良の小さな清流を遡って、幻の鳥となってしまった旧友ミソギソに会いに行く……そんな旅に出てしまいそうな気がしています。



[演劇]七山里

 日韓演劇フェスティバル の4作品目。この作品はアフタートークの回に合わず、残念。






2009年6月22日(月)19時
東池袋・あうるすぽっと
下手後方(全席自由席)
作:イ・ガンペク(이강백、李康白)
翻訳:秋山順子
演出:福田善之
出演:青山眉子、早野ゆかり、若井なおみ、能登剛、坪井木の実、成田独歩、馬淵真希、奥山浩、竹内千恵、南保大樹、腰越夏水、天野眞由美、長浜奈津子、菊池章友、遠藤剛、小田伸泰



 七つの山に囲まれた小さな村「七山里」。朝鮮戦争で山へ逃げた「アカ」の子供たちが、親の死後孤児となって山奥に残された。村に住む一人の女(早野ゆかり)が子供たちを引き取って育てるが、迫害の続く貧しい生活の中、女はわずかな食べ物を子供たちに譲って餓死する。
 時が流れ、成人した子供たちが七山里へ戻ってきた。道路建設のため、かあさんの墓が改葬されるという公示を新聞で見たのだ。集まった子たちは七人(能登剛、坪井木の実、他)、当時の子供は十二人。子供たちは全員揃ってから改葬の諾否を決めるというが、彼らに残された時間は今日の夕刻まで。かあさんへの想い、迫害された過去、今も残る村人たちの敵意……過去と現実を行き来しながら、時間の流れと人々の感情が浮かび上がる。



 「母」を中心に据えながらも政治色の濃いテーマ、セミ・ミュージカルという形式、子供たちが全員でセリフを唱和する様式。いずれも、一昔前のものという感は拭えません。そういう作品なので、それでよいのですが。セミ・ミュージカル、セリフの唱和は戯曲の指定通りです。



 舞台を見ながら、韓国人の役者が演じたら、もっとカラッと明るくユーモアもある芝居なのかもしれない、と思いました。日本人の演出・演技は、一般的な傾向としてシリアスなんですよね。よく言えば真面目で感動的、悪く言えば重苦しく湿っぽくやりたがる。この作品も作者の意図以上に深刻かつ情緒的になってしまっているような気がしました。



 やはりアフタートークを聞きたかったです。演劇は舞台がすべてで、演出意図や戯曲の解釈なんて舞台裏の話は聞かずもがな、ではあるのですけれど。



2009-06-28

二度あったから今月三度目

 今朝、久しぶりにのんびりと、洗濯やら片付けやらしていたら。



 不急不要の(と思われた)郵便物・メール便の束から出講先の大学の封筒が出現。
 あれ?いつの間に?何かしらん?と中を見てみると、学生による講義アンケートの実施に関する連絡でした。



 今はどこの大学も何らかの形で、学生による講義評価を行っています。昨年、一昨年、私もアンケートを実施しました。アンケート結果のレポートも見てます。(結果は絶対見ない、という先生もいるとかいないとか。)



 今年は何も連絡がないからアンケートの対象科目からはずれてるんだと思ってたのですが……ちゃんと連絡来てたのね。で、アンケートの実施日は?



 「6月25日」    うわぁっ!!!



 月曜朝イチで担当部署に連絡入れなくては……。
 次回の講義は予備期間中なので何とかなるはず……なりますように。



 パスポート更新忘れ観劇予定忘れ、に続いて、今月3度目の失敗発覚。このところ忙しいとはいえ、我ながら情けない。あ~もう、ワタシのバカ。



 どこかで大事を引き起こしちゃう前に、諸々のスケジュールと自分の頭の中とをきっちり整理し直さなくては。



[演劇]桜姫

 コクーン歌舞伎の第10回、初回から15年という節目の年に、2か月連続で鶴屋南北作の歌舞伎「桜姫東文章」を現代劇と歌舞伎で上演するという企画モノ。まず今月は、南米を舞台とした現代劇の「桜姫」です。副題は「清玄阿闍梨改始於南米版(せいげんあじゃりあらためなおしなんべいばん)」。
 2005年のコクーン歌舞伎「桜姫」は、現代演劇ファンから絶賛され、歌舞伎ファンから酷評された、評価真っ二つの話題作だったんですよね。今年の企画、うまいなぁ。






2009年6月23日(火)19時
シアターコクーン
2階ML20番
原作:四世鶴屋南北
脚本:長塚圭史
演出:串田和美
出演:秋山菜津子、大竹しのぶ、笹野高史、白井晃、中村勘三郎、古田新太、他(50音順)←こんな風に Bunkamura のサイトに出てました。



 歌舞伎の「桜姫」の翻案作品としては面白くできています。



 清玄は十字架を背負った聖人・セルゲイ(白井晃)、桜姫は聖女と娼婦という聖俗の性格を持ったマリア(大竹しのぶ)、一度の情交で桜姫が惚れ込んでしまった権助は現実主義的な悪党ゴンザレス(中村勘三郎)と変換、うまくはまっています。残月・長浦コンビは、ココージオ(古田新太)・イヴァ(秋山菜津子)。どうしてこんな名前になったのか分からないんですが、元の設定・性格は引き継いでます。



 権助と桜姫の「桜に釣鐘」の彫り物は「黒百合」、桜姫が身を落とした小塚原は「崖下」のスラム街、清玄が桜姫の赤子を抱いてさまよう三囲の土手は「崖下の土手」など、趣向の変換も面白い。



 というわけで、南北の「桜姫」の世界と趣向がどのように変換されるのか興味津々、細部まで楽しめた舞台でした。
 中村勘三郎、古田新太、笹野高史、うまいですねぇ。



 でも、歌舞伎の「桜姫」を知らないお客さんには意味不明な人物設定とストーリー展開だったのではないでしょうか。





 最後の場面で象徴的に示されているように、この芝居は、セルゲイとゴンザレスという二人の男を描こうとする意図があったと思われます。でも、タイトルは「桜姫」、サブタイトルは「清玄阿闍梨」、歌舞伎「桜姫」の枠組をそのまま維持。現代劇の手法で演じた歌舞伎作品「桜姫」です。言わば、現代劇風「桜姫」。
 なぜこの作品をこのように書き換えて演じるのか、根本的な動機が弱いのです。現代劇風と歌舞伎風と二種類並べて出してみようか(前回は評価真っ二つだったしさ……)という企画意図以上の動機がどこにあるのかなぁ、と。



 現代劇として上演するなら、「桜姫」からはプロットだけを借りて、もっと自由な脚本を書いた方が良い芝居になったのではないかと思います。
 歌舞伎の「桜姫」に触発された現代劇、見てみたいです。そう思わせてくれた今月の公演は、「桜姫」というコンテンツの可能性を発見した舞台でした。著作権切れの、オープンソースコンテンツですしね。



 さらに、来月のコクーン歌舞伎「桜姫」がどのような「歌舞伎」として演じられるのか、非常に注目しています。来月の舞台次第で、今月の現代版の評価が変わってくるかもしれません。



2009-06-27

[歌舞伎]六月鑑賞教室

 16日のチケットを確保していたのに、「あれ?いつだっけ?」と気づいたのは20日でした。大失敗。ネット上で予約・決済、チケットは当日受取というシステムで、チケット現物が手元にないのに観劇予定日を手帳に記入してなかったのが失敗の原因でした。
 教訓:チケット取ったら即手帳!






2009年6月23日(火)14時30分
国立大劇場
3階8列14番



「歌舞伎のみかた」

 市川笑三郎・市川春猿による解説。楽しいトークで女子高生によくウケてました。解説の内容が劇場を出た後にどれだけ頭に残ってるかは、また別の問題なのですけれど。
 こういう解説を見聞きするのは勉強になります。先生やってる身としては。




「華果西遊記」



 タイトルの「華果」は市川猿之助の俳名で、「市川猿之助の西遊記」という意味だと「歌舞伎のみかた」で説明してました。タイトルの意味は分かりますし、そのタイトルで上演する猿之助一門の志も理解できます、ワタシはね。
 でも、先生に引率されて鑑賞教室に来た高校生たち、「はじめてのカブキ」のお客さんたちにとっては、「エンノスケ? 誰それ?」です。題名変えてもよかったのではないかなぁと思いました。



 舞台は華やかでした。終演後、「面白かった~」と感激してるお客さんたちがあちこちにいたので、歌舞伎初心者には向いてる公演だったのでしょう。
 気になったのは、発声・滑舌がよくない役者が目立ったこと。沢瀉屋一門は発声が明瞭で台詞が聞き取りやすいのが取柄だったのですが。芸が崩れてきてる?



 常磐津と竹本の掛け合い、調子が高くて、竹本は苦しそうでした。



[歌舞伎]NINAGAWA 十二夜

 シェークスピアの「十二夜」を蜷川幸雄が演出した歌舞伎。日本国内で三演目となる今回は、今年3月本場ロンドンでの公演を果たしての凱旋公演と位置付けられてます。
 正直、野田歌舞伎「研辰の討たれ」も NINAGAWA「十二夜」も、二演目はそれほど面白くなかったです。初演のインパクトが薄れてしまうのです。
 ロンドン帰りの三演目「十二夜」は如何?






2009年6月22日(月)11時30分
新橋演舞場
3階3列40番台



 面白かったです。理由は2つ。
 一つは芝居のテンポがよくなっていて、ダレずに見られたため。三幕を二幕に書き換え、場面転換もスムーズに感じられました。
 もう一つ、こちらの方が大きいのですが、菊之助の芸が上がったため。特に声、セリフがいいです。美しく凛々しい女方と立役の役を芸の力で兼ねてます。「十二夜」という芝居の面白さを歌舞伎の芸を通して堪能できる幸せを味わうことができました。



 幕が開くと舞台全面の鏡に客席全体が映っている様が目に入ります。初演以来の変わらぬ演出ですが、毎回、すごいと思います。
 全編通じて、花道の出入りが鏡に映って見えるのは、三階客には嬉しいもの。



 一幕、織笛姫(時蔵)の赤姫の衣装が妙な色だと思ったら、黒の紗の掛けを羽織ってました。筋書きによると、ロンドン公演の際、この場の織笛姫は兄の喪に服しているのに赤い着物を着ているのはおかしいというロンドンっ子の感覚に対応して、喪を表わす黒の紗を掛けることにしたのだそうです。へぇ~。
 今回は凱旋公演なのでロンドン演出そのままに登場。歌舞伎好きの東京っ子の目には「ヘンな赤姫」ですけど、事情を知れば、まぁ納得。



 男装して獅子丸と名乗り小姓勤めする琵琶姫(菊之助)が、大篠左大臣(錦之助)への想いを独白する場面では、獅子丸と琵琶姫の声を巧みに混同させ、若衆姿で赤姫の袖遣いを見せてました。男優が演じる男装の姫君。妖艶な倒錯美が醸し出されました。400年前に出雲の阿国が演じた茶屋遊びもかくや。



 二幕、丸尾坊太夫(菊五郎)が偽手紙を拾う場面、歌舞伎らしからぬ演出ですが、鏡の効果も面白く。麻阿(亀治郎)はやり過ぎだと思うのですが、まぁいいか。
 菊之助の芝居が正当な歌舞伎なので、安藤英竹(翫雀)と麻阿のはじけっぷりの匙加減は難しそうです。



 捨助(菊五郎)はもっとトリックスターらしくやっていいんじゃないでしょうか。トリックスターの作る枠組が弱かったのが、菊五郎のためにも、この舞台のためにも、残念。



2009-06-26

ウサギが可愛くて

ウサギが可愛くて

 カフェオレにほっこり。

 サンシャインでランチ中。
 これからパスポートを受け取りに行きます。