2009-09-02

[歌舞伎]コクーン歌舞伎 桜姫

 6月の現代劇南米版「桜姫」 に続く、7月のコクーン歌舞伎「桜姫」。
 1994年から始まったコクーン歌舞伎は今年で10回目。10回の内、9回見てます。精勤賞なら貰えるかしらん。






2009年7月12日(日)12時
シアターコクーン
M2階R10番
作:四世鶴屋南北
演出:串田和美
出演:中村勘三郎、中村橋之助、中村七之助、笹野高史、片岡亀蔵、、坂東弥十郎、中村扇雀、他。



 歌舞伎の伝統的な演出手法に慣れた目には、串田和美のコクーン歌舞伎の演出は面白いです。発想も見せ方も。
 その一方で、力のある現代演劇の演出家というのは、歌舞伎役者を駒として使っちゃうのだなぁという失望感を味わいました。歌舞伎役者の身体は即歌舞伎の芸に通じるものなわけですが、それを封じるような演出を採用しちゃうんですよね。歌舞伎役者の身体をあえて封じているのか、身体に重きを置いていないのか、それは分かりません。もしかしたら、串田和美は歌舞伎の台本をそのように解釈しているのかもしれません。



 そういう演出なのだと言われればそれまでなのですが、歌舞伎役者の「芸」を見たい私には、そんなことしなくていいから普通に役者の芝居を見せて~と、欲求不満の蓄積する舞台なんですよねぇ。



 今回の舞台で言えば、役者が台車に乗って動く演出。役者が舞台を歩く姿、その足取りを見られないというだけで、こんなにもどかしく、フラストレーションがたまるとは。
 日頃の歌舞伎見物では、飛び六方などの特別な場面でなくても常に歌舞伎役者の足取りを強く意識していたのだと、自分でも初めて気づきました。



 コクーン歌舞伎の演出で役者が駒として使われているような感覚は、勘三郎が平成中村座を始めて小さな小屋での歌舞伎芝居が可能になって以降、特に強くなったように感じてます。伝統を重んじた現代の歌舞伎芝居は平成中村座、現代演劇としての歌舞伎芝居はシアターコクーンと、勘三郎が使い分けているのかなと思います。



 6月の南米版現代劇、7月のコクーン歌舞伎と二種類の「桜姫」を見て。正直、歌舞伎の「桜姫東文章」ってもっと深く面白い作品のはずなのだけれど……という思いが拭えません。



 「桜姫東文章」、歌舞伎座さよなら公演で見たいものです。
 願わくば、昭和60年のあの舞台と同じく、仁左衛門・玉三郎で。



2 件のコメント:

  1. 『桜姫』、再演でしたよね。
    前回(2005年だっけ?)のを観て同じ感想を持ちました。
    「普通に歌舞伎で観た方がいいーっ!!」って。
    別に「現代演劇だから」役者の芸を封じるということはないですよね。
    演出家があえて歌舞伎でやらないことをやろうとして上手くいかなかったのか、単にこの芝居の魅力を分かっていないのか(わ!暴言)

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  2. 阿青さん
     前回2005年の「桜姫」をご覧になってるんですね。歌舞伎芝居に馴染んだ身には、あれは今回以上に違和感が強かったです。部分部分は、非常に面白い演出満載でしたけれど。
    > 別に「現代演劇だから」役者の芸を封じるということはない
    > ですよね。
     あ、もちろんです。野田版「研辰」は歌舞伎役者の身体を見事に生かした演出だったと思ってます。
     今回のパンフレットに串田和美自身が「僕のスタンスは歌舞伎の戯曲に様々な現代的要素を見つけ出し、現代人のための歌舞伎=演劇をつくりだすこと」と書いてます。ということは、現代の感覚にそぐわない(と演出家が感じた)部分は(結果的に)切り捨てるor無視するという形で処理されてるのだと思うのですね。
     その、切り捨てられたり無視されたりしちゃったところが、私にとっては歌舞伎芝居の魅力に直結する重要な要素なのだなぁ、と感じたのです。
     なので、私の観点からは「この芝居の魅力が分かってない」と言いたくなくもありませんが、あちらはあちらで「僕の演劇の魅力が分かってない」と反論したいことでしょう。容易に想像できます。(^-^;
     こんなふうにいろいろ考えさせてくれる刺激的な芝居、と受け止めてます。

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