2009-07-30

[演劇]胎

 スケジュール的に無理かなぁと思ってチケット取ってなかったのですが、このブログを見たという関係者の方から、大笹吉雄氏による上演作品レクチャーの案内メールを頂戴してしまいました。ありがとうございます。
 レクチャーはどうやっても無理な日時だったので、せめて舞台だけでも、と当日券を頼りに出かけて行きました。






2009年7月10日(金)19時
世田谷パブリックシアター
3階最前列中央(自由席)
作・演出:オ・テソク(오태석)
翻訳:石川樹里
出演:チャン・ミンホ(장민호)、キム・ジェゴン(김재건)、ムン・ヨンス(문영수)、イ・スンオク(이승옥)、オ・ヨンス(오영수)、チェ・サンチョル(ママ)(최상설)、イ・ムンス(이문수)、ソ・ヒスン(서희승)、グォン・ボクスン(권복순)、キム・ジョング(김종구)、他





ストーリー

 わずか12歳で李氏朝鮮六代目の国王となった端宗は、15歳の時に実の叔父である世祖に王の座を奪われ、寧越(ヨンウォル)に配流された。この時、端宗の復位を図った六人の忠臣たち(死六臣)は大逆臣とされ、本人だけでなく、親、兄弟、親戚を含め一族根絶やしという極刑に処された。しかし忠臣の一人である朴彭年の家門では、ちょうど時を前後して生まれた孫嫁の子と下男の子をすり替え、下男の子を犠牲にすることにより一族滅亡の危機を逃れた。
 一方、世祖の参謀である申叔舟は国の今後を懸念し、端宗を生かしておくなと世祖に忠告する。しかし世祖は、実の甥である端宗の命だけは奪いたくなかった。だが、世祖の前に現れた死六臣の亡霊たちは、国の行く末を案じて、むしろ申叔舟の側に立ち、端宗を処刑するように世祖に精神的な圧迫を与える。



 流配(ママ)地で端宗の身辺保護にあたっていた検非違使の王邦衍は、国論が二分して国が乱れることを恐れ、王命と偽って賜薬(死刑に使われる毒薬)を遣わし、端宗を毒殺する。これによって国論の葛藤は終止符を打たれる。



 一方、忠臣・朴彭年の家の代を継ぐ赤子をおぶって必死の逃亡生活を送っていた下男は、自分の手ではこれ以上守りきれないと世祖のもとに赤子を連れてくる。甥である端宗の死によって失意していた世祖は、かつて友であった朴彭年の孫を胸に抱き、朴家の代を継がせることを約束する。

パンフレットより




 演出の都合上、客席への入場は開演15分前からとのことで、客席に入ったら、舞台に白装束の六人の男が倒れてました。なるほど、これが死六臣なのね。大道具がほとんどない、シンプルな舞台です。
 開演時間になると、この六人が一旦立ち上がり、時間が逆戻りするような感覚の中、まだ幼い端宗が、自分は未熟なので世祖に国政を任せるという宣書を読んで譲位してしまう場面が演じられます。世祖の思惑は見えませんが、幼い端宗の悲痛な立場は伝わってきます。死六臣が全身で復位を訴えるも、逆に妻共々処刑され、倒れていきます。



 表現が抽象的かつ身体的。身体表現が勝っているためか、時代がかったセリフを字幕で追う煩わしさがあまり気にならず、夢を見ているような舞台です。



 自分の子供を犠牲にして主家・朴氏の跡継ぎをかくまった下男と妻の登場する場面は、あれこれ笑いの要素を織り込んであるのですが、やや不発。舞台も客席も硬い感じでした。



 端宗の処遇をめぐって、死六臣が亡霊として再登場。前の場面では端宗の復位を願ってたのに、ここでは端宗の処刑を進言して、一体どういう思想で行動してるのか、日本人には理解しにくいところです。「国のため」ということなのでしょうが、国にとりついた亡霊のように見えてきます。これも身体的表現ゆえ。



 申叔舟が端宗の処刑を進言するのは、端宗のために死六臣は一族全員死んだ、端宗が生きていればさらに数百人の臣下が逆臣として死ぬことになり、国の安定が失われる、という理屈です。端宗の警護にあたっていた王邦衍が端宗を毒殺するのは、自分が端宗の復位を図る企てに加担していたことが露見する恐怖に耐えかねたため。申叔舟は王邦衍が端宗を毒殺したと聞くと、世祖に「賜薬を下したとお触れを出すように」と助言し、端宗の死が王命によるものだったと取り繕ってしまいます。
 このあたりの論理と展開、ついて行くのが大変。韓国人にはすんなり納得できる発想なのか、気になるところです。



 最後に、朴家の孫を託された世祖が、それまで名前のなかった子供にイルサンと名付け、王命により朴家を継がせると定めます。
 タイトルの「胎(태)」を韓国の辞典でひくと、お腹に子を持つこと、妊娠すること、子を育てること、鍛錬すること、胎児、胎盤、根源、初め、などの意味があります。イルサンと名付けられた子供が「胎」の象徴であると同時に、端宗も世祖も申叔舟も王邦衍も死六臣も下男も、皆「胎」であると解釈できるのでしょう。




 終演後、作者のオ・テソクと野村萬斎によるアフタートークがありました。印象に残った内容を私なりにまとめておきます。(Q:野村萬斎、A:オ・テソク)



Q:(韓国の「泣き女」「恨」をふまえて)慟哭、泣きの芝居だが……。
A:本来は諧謔的な笑いの多い芝居。「恨」は「恨」がつもってそれが解けるまでが「恨」。同じように、泣いて泣いて、それを越えると、笑いに通じると思う。



 質問を聞きながら、この作品を「慟哭」の芝居と捉えるのは日本人の解釈だな~と思ってました。案の定、もっと笑う所がある作品、とのこと。笑いが少なくなったのは、日本の観客の真面目な観劇態度も一因ですが、韓国の俳優の側も日本の立派な劇場での公演ということで緊張して硬くなっていたせいもあると仰ってくれてました。



Q:「しゃべる」と「語る」の違いをどのようにとらえているか。
A:アジアの演劇は観客に開かれている。省略と飛躍が特徴で、観客が想像力で補っている。この作品は舞台の上にあるのでなく、観客の頭の中にある。芸術は、観客の頭の中の使ってない引出しを使ってもらうものだと考えている。



 この質問、韓国語では成立しないんですよねぇ。韓国語には、日本語のような「しゃべる」と「語る」の区別がないのです。野村萬斎も質問しながらその可能性に気づいてましたが。
 オ・テソクは、<俳優が観客に「しゃべる」ことと「語る」ことの違い>という質問を<俳優は観客にどのような働きかけをするのか>と捉えなおして答えてくれてました。深いです。



 微妙にかみ合わない質疑応答のお陰で、とても面白いアフタートークでした。
 野村萬斎、意図してこのような質問をしてたのだとしたら、タダ者じゃないです。タダでさえタダ者じゃない人ですけど。




 帰りにロビーで売っていた台本を買いました。韓日対訳本で、500円。今回の公演のために作ったもののようで、奥付がないので、一般販売はしないものと思われます。世田谷パブリックシアターに在庫があれば購入可能かもしれません。手に入れたい方は、お早めにお問い合わせを。



2 件のコメント:

  1. 「胎」の台本、いいこと聞いた♪と今日問い合わせをしてみました。
    そうしたら世田谷パブリックシアターではなく韓国側で作ったものだそうで「公演が終ったら韓国に引き上げてしまい、てもうこちらには残っておりません」とのお返事でした。
    残念!
    そのうち手紙で問い合わせるか、いつか韓国へ行ったときに劇団を訪ねてみます。
    できるのか?>自分

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  2. 阿青さん
     あぁ、全部韓国へ戻っちゃったんですね。もったいない。
     ある程度世田谷パブリックシアターで確保しておけばよいのにねぇ。劇場へ行かれなかったけれど台本は読んでみたい、という人、多いでしょうに……。
     私も余分に買っておけばよかった……。

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