風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりける
従二位家隆[歌意]風がそよそよと楢の葉に吹いている、このならの小川の夕暮れは、秋の訪れを感じさせるが、六月祓のみそぎだけが、夏であることのしるしなのだった。
(鈴木日出男・山口慎一・依田泰『原色小倉百人一首』文英堂)
『小倉百人一首』98番目の歌です。「ならの小川」は上賀茂神社の中を流れる御手洗川、「六月祓」は毎年6月30日に行われる夏越の祓を指しています。
そよ吹く風に秋の気配を感じつつ、上賀茂神社の夏越の祓の神事を目にして夏の最後の一日を実感するという、夏から秋への季節の移ろいをとらえた歌です。
さて、子供の頃、毎年お正月には祖父母の家でいとこたちとよく百人一首で遊びました。散らしとか源平とか坊主めくりとか。
散らしや源平のカルタ取りをする時には、叔母さんたちが札を読み上げてくれました。
私はこのカルタ取りで百人一首の和歌を覚えました。歌の正確な意味など知らぬままに。
そのため、冒頭に掲げた家隆の歌を、子供の私はこんなふうに理解してました。
風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは
ミソギソ 夏の印なりける風がそよそよと吹く奈良の小川の夕暮れは、ミソギソが夏の証である。夏の夕暮れにはミソギソが現れて季節を告げてくれるのだ。
だって、百人一首の札には濁点ないもん。
叔母さんたち皆(含む実母)「ミソギソ」って読み上げてたんだもん。
叔母さんたちの名誉のために付け加えておきますと、祖父母の家で百人一首は正月恒例の遊びだったので、いろいろ「我が家流」の読みクセがあったのです。「つらぬきどんてん玉ぞ散りける」とか「末のまっちゃん波越さじとは」とか。「みそぎぞ」もいつの間にか「みそぎそ」になっちゃったのでしょう。
そんな訳で、私は子供の頃からずっと、奈良の小川にはミソギソという鳥が棲息しているのだと、夏になると水辺ではミソギソの鳴き声が聞こえるのだと、でもって奈良の人たちはミソギソの声を聞いて「あぁ、ミソギソだ、もう夏だねぇ」と言い合ったりするのだと、固く固く信じていたのでした。
ところが、中学高校で古文を習い、大学で国文科に進学し、『百人一首』のお勉強なぞするようになったら、ミソギソは消えてしまいました。
え? 「ミソギソ」じゃなくて「禊ぞ」? えぇっ!?
日本国語大辞典や鳥類図鑑もひいてみました。長年親しんだはずのミソギソは見つかりませんでした。
今はちゃんと分かってます。ミソギソなんて鳥、どこにもいません。現に今も「ミソギソ」ってググッてみましたけど、たった2件しかヒットしないんですから。
「ミソギソ」じゃなくて「禊ぞ」。家隆が詠んだのは夏越の祓です。
でも。
小さめのほっそりした姿。光の加減で色を変える青味がかった美しい羽。ツィッツィと鳴く高めの涼やかな鳴き声。
いつの日か……初夏の木漏れ日の下、奈良の小さな清流を遡って、幻の鳥となってしまった旧友ミソギソに会いに行く……そんな旅に出てしまいそうな気がしています。